日常から医療の話まで院長の徒然日記

人類は新たな生活様式を獲得して 感染症との本格共生がスタートした

著者の河野先生は序章で我々が「アフター・コロナ」という新時代を生き延びるためには「歴史から学ぶ」であり、そのために書かれた本であると書いています。

第二次世界大戦のイギリスの首相ウインストン・チャ―チルの名言「歴史から学ばぬものは必ず亡びる」を座右の銘としてこの本をみなさんとみていきましょう。

河野正史先生は河合塾の超有名世界史講師だそうです。そういえば、もう40年以上前ですが、私も駿台全国模試の日本史で全国一位をとったことを思い出しました。勉強の合間に日本史の歴史書を読みまくってました。

その時に覚えた日本史受験テクですが、何かを軸にして歴史の流れをみることにつきます。私は年代と隣の国の王朝の変遷を軸としました。その縦軸と横軸を網目にして前後の出来事をジグゾーパズルを埋めるように関連づけていくと出来事に対する必然や結果が流れとして想像できます。

ジグゾーパズルのピースを埋める遊びとして歴史を楽しみましょう。

またそれはおいおいyoutubeやブログにアップします。

第一章 新たな生活様式「農耕」を獲得  感染症との本格共生がスタート

『新たな生活様式「農耕」を獲得し、感染症との本格共生がスタートした。』 約20万年前に人類の祖先がアフリカで誕生しました。 そのころは少人数の集団が狩猟や採取を行いながら移動生活をしていた。 もちろん、感染症はあったがそのような隔離された小集団では人類すべてに襲い掛かるパンデミックは起こりようがなかった。 紀元前1万年前ころ「農耕」が始まってから、採取・狩猟時代に比べて狭い土地で多くの人が生活できるようになり人口も増加した。そして、定住生活により生活空間がアウトブレイクやパンデミックの温床になった。 歴史的に狩猟採取時代の出産間隔は平均4~5年であるが、農耕定住時代になると平均2年となる。移動時代は幼児があるけるまで移動ができないが、定住になると移動より労働力を必要とした。 灌漑や排泄物は寄生虫やネズミ、カなどを呼び寄せる。 家畜の存在も無視できない。犬、牛、ヤギ、ひつじ、ぶた、馬、ラクダ、鶏などが身近で生活し、動物から人への感染もひろがった。

第二章 メソポタミア文明の勃興ととも感染症の定期流行が発生

紀元前3500年ごろ、ティグリス・ユーフラテス両河川流域に人類最古の文明「メソポタミア文明」が起こっている。 ちなみのその時代の世界四大文明は『メソポタミア文明』・『エジプト文明』・『インダス文明』・『中国文明』である。 その頃、そこで大流行したのが「麻疹=ハシカ 空気感染。飛沫感染、接触感染で広がる」感染力は非常に強く免疫を持たない人が感染するとほぼ100%発症する。しかし、その後、治癒すれば終生免疫になると言われている。 もともと麻疹ウイルスは動物の感染症であった。 また、感染症の持続的流行を維持するには最低でも数十万人に人口が必要であり、それ以下の人口では散発的に流行となる。 もちろん、最初の大流行でメソパタミア文明は麻疹を克服したわけではなく、免疫をもつものが増えたため、大流行には至らなかっただけである。世界に拡大し、大航海時代には北中南米をはじめ世界の隅々にまで広まった。 19世紀以降に北大西洋のフェロー諸島やグリーンランド、またオーストラリア大陸の東にあるフィジー諸島に麻疹が到達したしたときには人口のほとんどが感染する大流行になった。 そのため、見えない感染症はそれを知らいな時代の人々にとってはコロニーに知らない人を入れない、知らないコロニーにはいかないという見えない城壁でもあったようです。

第三章 ミイラを見ればピタリとわかるエジプト文明を襲った感染症

世界四大文明の一つであるナイル川を中心とするエジプト文明ですが、ナイル川周辺の肥沃な土壌で農耕文化が発達した。 出土したミイラから結核、ハンセン病、ポリオ、天然痘、マラリア、トキソプラズマなど多くの感染症が蔓延していたことがわかる。 農耕文化には必須の灌漑は蚊が繁殖する場所で、古代エジプトでもマラリアが広く流行したようだ。 発掘したレリーフには女王クレオパトラが蚊帳を使っていた様子が描かれている。ツタンカーメンもマラリアに感染した可能性がある。 ラムセス5世のミイラからは天然痘の既往が認められる。これは世界最古の天然痘の死亡事例として有名である。 前の本でも触れましたが、エジプトは猫を女神バステトとすして崇拝するくらい猫が愛でられていたが、猫のミイラからトキソプラズマがみつかっている。そのおかげで魅力が才能がまし探求心が好奇心が刺激されたのかもとも考えられる。

第4章 農耕の拡大に伴い増えるマラリア「カースト制度」が対抗策に

農耕の拡大に伴い増えるマラリア「カースト制度」が対抗策になった。 メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国文明の世界四大文明も都市の人口が増えるとともにまた感染症に悩まされた。 共通して流行したのは「マラリア」であった。 マラリアはイタリア語の「Mal=aria(悪い空気)」温かく、湿気の多い場所で流行する。現在でも全世界で毎年2億人以上が感染、40万人以上が命を落としている。まだワクチンはないがキニーネをはじめ治療薬はある。 中国では中国最古の医学書「黄帝内経」にマラリヤの診断と治療法が期されているくらい人類を悩ませ続けた病気である。 しかし、インドではカースト制による厳格な身分の管理がマラリアを含めた感染症に対しては有効な予防法として確立された可能性がある。

第5章 古代ギリシャ史料からみるインフルエンザとパンデミック


古代ギリシャのヒポクラティスが記載した流行病の記載『ある日突然やってきて多数の住民が高熱を出し、咳も盛んにする、たちまち村中にひろがった』が最古のインフルエンザの記録といわれている。 また、古代ギリシャ全土を巻き込んだアテネ(デロス同盟)とスパルタ(ペロポネソス同盟)の間でおこった「ペロポネソス戦争(BC431~BC404)」では攻め込まれたアテネが城壁の中に退避したが、城壁内で突然高熱に襲われ、咳や嘔吐を伴いひどく苦しんだ。スパルタにとっては絶好の機会であったが、住民の1/6が死亡した見えない感染症を恐れて、アテネ城内に攻め込むことはなかった。 見えない感染症は時には都市を全滅から守ることもある。

第六章 中国発の「ペスト」シルクロード交易で西へ

ペストは黒死病とも呼ばれる。14世紀にヨーロッパで起きた大流行では世界人口4億5千万のうち20%以上の1億人が死亡した。 もともとは1世紀に中国雲南省あたりの風土病でげっ歯類(ネズミ)についたノミが媒介する細菌である。当時の致死率は60~90%である。 症状はだるさからはじまり、筋肉痛、高熱、循環器系の障害で内出血を起こし、皮膚が暗赤色になるため、黒死病とよばれる。 シルクロードは要する中国とヨーロッパを結ぶ交易ルートであるが、中国の雲南省は長安を起点として天山山脈からサマルカンドに至る古くからシルクロードの南西ルートにあたる。 シルクロードで人や交易品とともに運ばれたのが天然痘や麻疹、ペストである。 地方の風土病が免疫のない地域に運ばれると人口の減少に影響するような爆発的流行をおこすことは当然である。 見知らぬ人々が運んでくる見知らぬ品々は魅力があり、高値で売れるが、見知らぬ病原体も運んでくる。それでもシルクロード交易のうまみはあまりあったということである。 海路、陸路、空路が発達し、世界が狭く、小さくなった現在でが見えない病原体を距離や時間で防ぐすべはシルクロードの昔よりも難しくなっている。 しかし、それ以上に医学が発達した現在、見えない感染症克服のスピードも格段に速くなっている、我々はこの医学の進歩を信じて、「正しく恐れる」ことが必要である。

第7章 記録に残る最初の大流行 ユスティニアヌスのペスト


395年に東西に分裂したローマ帝国ですが、その後、西ローマ帝国は476年に滅亡しました。 しかし、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は地中海周辺を支配し、体制を維持しました。 527年に即位したユスティニアヌスは「ローマ法大全」を編纂し、かっての威光を取り戻すため、周辺国家を征服し始めました。 サハラ以南の砂漠から流行が始まったペストがエジプト、そして記録上541年にはローマ帝国で大流行をもたらしました。 「ユスティニアヌスのペスト」として記録されましたが、この見えない病原体の影響は彼自身をも襲い、かろうじて回復しましたが、遠征はとん挫してしまいました。 さらにペストの大流行は東はササン朝ペルシャから西は南ヨーロッパまで広がりました。 首都コンスタンティノープル(イスタンブル)の悲惨な状況は1日で1万人の死亡者が出て、当時のコンスタンティノープルの人口の30~40%の人が死亡しました。 ペストがネズミのノミで媒介されるという特性から「ユスティニアヌスのペスト」は冬になると小康状態となり春がくるとまた猛威を振るい6世紀から8世紀まで散発的に続き、地中海沿岸の人口は激減しました。 地中海沿岸部のヨーロッパ文明は疫病により衰退し、カール大帝が800年にローマ教会の庇護者になるなど比較的ペストの被害の少ない北部のドイツやフランスに文化や権威の中心は移りました。

第8章 隋はペスト、唐は謎の疫病 王朝の崩壊を促した災厄


東ローマ帝国が「ユスティニアヌスのペスト」で大混乱に陥った6世紀ごろペストの原産国であるある中国は589年に隋が陳を滅ぼして、300年ぶりに中国を統一した。 604年に即位した2代目煬帝の時にヨーロッパから海路で入ってきたペストが大流行した。 長城の修復、華北から江南をつなぐ大運河の開削、高句麗への遠征などで税金と労役で民は疲弊し、さらにペストが流行しはじめた隋は618年に疫病の不満もたまり煬帝が殺され崩壊した。 そのあと李淵・李世民親子が唐を建国した。「貞観の治」、「開元の治」など良政を行っていたが、当時の意医学では抗えない疫病の流行も記録に何度もでてくる。 そのような事態で税収の低下や財政の悪化を招き国力が衰退して、300年近く続いた唐も滅亡し、五代十国時代(907年 – 960年)となる。 見えない病原体に対する恐怖は民衆を不安の徒に変えてしまいます。 私たちは感染症の歴史から見えない病原体の姿を学び、「正しく恐れましょう!」

第9章 日本へ伝播した天然痘が奈良の大仏建立につながる

もともと天然痘は動物、牛の病気であったが、紀元前10000年ごろには人にも感染していた。起源はさだかではないが、感染性の高い流行病として恐れられてきた。江戸時代には「疱瘡は見目定め、はしかは命定め」と言われ2大感染症であった。 話を奈良時代に戻すが、中大兄皇子(天智天皇)とともに645年の大化の改新を進めたのは中臣鎌足である。そのの息子の藤原不比等が藤原京から710年に平城京遷都を行った。 その頃には律令体制も整い班田収授法と言われる農地(田)の支給・収容に関する法体系ができた。 しかし、恭仁京や難波京、長岡京などへの遷都もあり平城京は不安定な都であり、794年には平安京に遷都となった。 奈良時代は政争にも明け暮れ、不比等の息子の武智麻呂、房前、宇合、麻呂の四兄弟が藤原独裁政治を目指した。 姉妹の光明子を聖武天皇の皇后につかせようと画策したが、それに反対したのは皇族勢力である長屋王だった。そして長屋王追い落としのため、729年「長屋王が呪術により国家を傾けようとしている」と密告で長屋王を自害に追い込んだ(長屋王の変) この後にはじめて皇族以外の皇后・光明子が誕生し、藤原氏の子女が皇后になるという先例を打ち立てた。(外戚政治) さらに奈良時代の天平文化が花開く735年には天然痘が大流行した。その頃の致死率は20~50%で当時の総人口の約3割にあたる100万人以上が死亡したと言われている。そしてこの大流行した天然痘で4兄弟全員が病死した。 政治も乱れ、班田収授法では認められなかった私有が743年墾田永年私財法で認められ、のちの荘園制度につながる。 聖武天皇は政治の乱れや悲惨な疫病に心痛め、仏教に深く傾倒し、東大寺と大仏の建造を命じた。さらに日本各地に国分寺の建立を命じ、長屋王の怒りを鎮めようとした。 天然痘の流行は税制基盤を揺るがし、天皇・皇族を中心とした律令制を崩壊はやめさせたといえる。 見えない病原体に対する恐怖は民衆を不安の徒に変えてしまいます。

第10章 十字軍の遠征によって西欧中に広まったハンセン病

ハンセン病は皮膚の結節や潰瘍、硬化、末梢神経の肥厚、目の異常など外見に大きな影響を与える。 1873年、ノルウェーのアルマウェル・ハンセンによってらい菌が発見されるまでは遺伝性の病気であるといった差別や誤解が流布された。 古代ローマ時代にハンセン病に関する記載があるのでかなり古くから伝搬していた可能性があるが、ハンセン病の起源は東アフリカ、エジプト、トルコ、バルカン半島などだが、感染性はそれほど強くないので風土病としてとどまっていた。 しかし、ヨーロッパでは、十字軍の派兵によりハンセン病蔓延のピークは14世紀に訪れた。 十字軍の遠征によりヨーロッパと東方社会の交流が活発化しハンセン病がすでに蔓延していたアナトリア半島に経由し、ヨーロッパ各地の兵士がパレスチナ地方と往来したことが原因でヨーロッパ各地でハンセン病が蔓延した。 13~14世紀にはヨーロッパ全体で100万人ほどの患者がおり、1万9千か所のハンセン病患者のラザレット(療養所)があった。 キリスト教でハンセン患者を手厚く看護すること神の使命であった。しかし、ハンセン患者の結婚や子孫を残すこと禁止していた。つまり都市から追放、隔離でみえざる者としたのである。 ハンセン病は遺伝性がないことが判明し、治療法が確立した20世になっても差別的に取り扱いをされた。 ハンセン病は見えない病原体に対する人々の深層心理に関する根深い問題として考えていかなくてはならない。

第11章 既存の社会を破壊した中世の「黒死病」の大流行

6世紀の「ユスティニアヌスのペスト」以降8世紀半ばまでペストは地中海沿岸で数回流行を繰り返す。その後は14世紀まで大流行はなかったが、その大流行は史上最悪最大であり、封建制度やキリスト教の権威を失墜させた。 今回のペスト(黒死病)の持ち込んだのは中国から東ヨーロッパまでユーラシア大陸を支配したモンゴル帝国です。この支配でシルクロード交易はさらに安全になり、盛んになった。 記録を分析すると1331年中国でペストが大流行して1334年には河北省の人口の9割に相当する500万人の死者がでた。その流行はシリア、パレスチナ、エジプトなどを経由し、1374年にはクリミア半島の商業都市カッファに達した。そしてカッファからコンスタンティノープルを経由してシチリア半島からイタリヤ北部へ、さらにマルセイユ、フィッレンツエ、ローマ。パリ、ロンドン、西はロシア西部まで、ほぼヨーロッパ全土にまで広がった。 なぜ、再び大流行が起こったかというとそれは中世の農業改革が大いに影響していている。穀物の増産で人口は増え、都市に人々が集中した。それにより都市の衛生状態は悪化し、人間や動物の排泄物・生活ごみで都市は汚染され、ペストを媒介するネズミの楽園となった。同時に土地の開墾で森林が減少し、ネズミの天敵であるキツネ、オオカミ、猛禽類が激減した。当時8000万人いたと推定されるヨーロッパの人口の60%が死亡したともいわれている。 大量の農民が死亡して深刻な働き手不足となり荘園制が崩壊した。さらに疫病は神罰と考えられていた当時になんら有効な対策の打てないカトリック教会の権威が低下した。 人々はキリスト教以外に救いをもとめ、古代ギリシャや古代ローマ時代の書物や芸術の回帰運動が盛んになり、ルネサンスとよばれるようになった。 結果的にはそのような民衆の施行変容が中世を終わらせた。

第12章 ヨーロッパの大航海時代により南北アメリカ大陸に感染症が流入

16世紀にはいり、ヨーロッパ人は大型帆船に乗り、外洋に乗り出した。 ポルトガルはアフリカ大陸沿岸を南下してアフリカ大陸南端の喜望峰到達からインド洋航路開拓で東南アジアに達した。 スペインはポルトガルに対抗して大西洋を横断して西回りでアジアに達する航路を開発しようとした。それがクリストファー・コロンブスである。 1492年8月3日にスペインのパロス港を出港したコロンブスの船団は、2か月の公開後、ヨーロッパでは知られていなかったアメリカ大陸に到達した。 しかし、南北アメリカ大陸の先住民にとってもヨーロッパ人は未知の人々であり、未知の見えない病原体を持ち込んだ感染源でしかなかった。 天然痘やはしかに対する抗体のない先住民たちは次々と高熱を発し、全身に発生する発疹に苦しみ死んでいった。南米大陸で繁栄を誇ったアステカ王国とインカ帝国も天然痘の大流行で国力が低下し、滅んでいった。 天然痘の次に麻疹、チフス、インフルエンザ、肺炎、おたふく風邪などヨーロッパ由来の感染症をもたらした。また、それらの感染症を利用して先住民をせん滅するために麻疹患者の衣服を与えたりして意図的に「細菌兵器」として彼らは利用した。 また、時代がさがり、アフリカ大陸との交易がさかんになると南北アフリカのプランテーションに働き手として連れてこられたアフリカ由来の感染症も流行することになった。それがマラリヤや黄熱病である。 さらに見えない病原体はキリスト教の布教に関しても有利に働きました。 先住民の神が見えない病原体に対してあまりにも無力であったため、宣教師たちはキリストの神が彼らを救うとしてキリスト教に改宗をせまり、改宗に成功した。

第13章 ヨーロッパに突然出現した梅毒 大航海時代の働きで日本にも到達

スピロヘータ科の「トレポネーマ」という細菌が病原体の性病であるが、ヨーロッパでの出現は突然であった。コロンブスがアメリカ大陸を発見した1493年からである。 また、アメリカ大陸で発見された先住民の人骨に梅毒とみられる病変痕跡があるが15世紀以前のヨーロッパ人の人骨には梅毒病変の痕跡が確認できない点から、アメリカ大陸の風土病ではないかと考えられている。 つまり、アメリカ大陸の先住民女性と性交渉をもったコロンブス船団の船乗りが現地の風土病をヨーロッパに持ち帰った。 古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動ルネサンス運動が全盛であった。人間性の自由・解放を求めていたため、当然中世的価値観の性も解放された。人々は自由な性生活を謳歌し、まるで食事をするような感覚で性交渉をしていた。性交=罪と規定されている聖職者まで気兼ねなく娼館通い、修道院では修道女が無償で性的奉仕を行い、犯罪行為防止のためのガス抜きと認識されていた。 この性にたいする奔放なルネサンスの姿勢が梅毒感染の拡大に一役かった。 梅毒が性交を介して感染すると理解されるようになると再びキリスト教を中心に性をタブー視する文化が広まった。 日本にも南蛮貿易を通じて梅毒は1512年には記録が確認されている。コロンブスが1492年に新大陸を発見してあらわずか20年で日本に到達した。 梅毒にり患したといわれる戦国武将は枚挙にいとまがないが、加藤清正、大谷吉継、黒田官兵衛、前田利家などいる。

14章 17世紀のロンドンを襲うペスト禍! デフォーの「ペスト」が伝える騒動

もともとはアジアの風土病だがシルクロードや十字軍遠征などでヨーロッパにしばしば流行をもたらしたペストだったが、1665年、首都ロンドンは大規模なペスト流行に見舞われた。 この17世紀の大流行は「ロンドンの大ペスト」と呼ばれる。 9月には一週間で7165人の死亡者がでた。このペストが終焉したのは1666年になってから、公表された死者は6万8596人だが、実際には10万人以上が犠牲になっている。 ちなみのアイザック=ニュートンは「ロンドンの大ペスト」の時、ケンブリッジ大学にいたが、大学が休校になったため、故郷の町ウールスソープに帰省し、その時に思索をめぐらし、万有引力を発見した。 「ロビンソン・クルーソー」の著者ダニエル=デフォーは「ロンドン大ペスト」時代にロンドンに住んでおり、ペストの社会不安を記録した。 「感染は知らず知らずのあいだに広がり、見たところ病気のかかっている気配のない人たちを通して、蔓延した。病気はいつのまにか忍びより人から人へとうつっていった。何千所帯の市民がロンドンを離れたが、疎開先で病毒を広げることになった」 ほかにも治安の悪化、デマの拡大、誹謗中傷の増加など、今回の新型コロナのパンデミックでも起こったインフォでミックが過去におこっていたことがわかる。

第15章 産業革命による劣悪な労働環境が結核大流行の要因


18世紀半ばから19世紀中期にかけて産業革命がおこった。 蒸気機関により生産性が大幅アップし、工業製機械工業を広く展開した。 産業の集約化で人々は都市に集約された。 イギリスではインドから詰めた綿花を原料に紡績工業が機械化により発展した。そして工業都市ができ、その人口の集約化で結核が蔓延した。 結核は古代エジプトでもミイラから発見されるほど古い病気だが、急激な人口増加で環境衛生面の整備は整わず「不衛生な環境」「免疫力の低下」「密閉空間による菌の蔓延」などで一気にクラスターが発生した。 紡績工場では働くには主に子供や女性であるが、換気がわるく三密の環境の工場内での長時間労働を強いられた。 さらに、そこで使われた縦糸に横糸を通す飛び杼は口中に含むため感染の温床になった。 しかし、その悲惨に状況を憂いて環境を整備するために1833年にイギリスでは「工場法」が制定された。

第16章 ナポレオンのロシア遠征失敗! 最大要因は発疹チフスリケッチャ

不衛生な環境で三密を伴う軍隊は古代から感染症の温床であった。 特に戦いが長期の遠征ともなると戦死者よりも戦病死者が多いことは避けられないことでした。 フランス帝国皇帝ナポレオン=ボナパルトによるロシア遠征もそうである。ナポレオン率いるフランスに従わないロシアを懲罰するために、1812年60万の兵をもって夏にロシア進行し、モスクワを占領した。 しかし、占領地モスクワの建物はほとんど焼き払われ、破壊されていた。そのため、フランス軍は寒い冬に野営するしかなかった。 コサック兵のゲリラ戦に苦しむナポレオン軍内で発疹チフス(コロモジラミによる発疹チフスリケッチャにより媒介される)が流行し始めた。発疹チフスは不潔な衣服にシラミが取り付いておこるため、「監獄病」、「収容暑熱」、「戦争熱」ともいわれていた。 ナポレオン軍が退却し始め時にはロシア軍との戦闘による戦死者は10万人、戦病死者は22万人に達していた。 この敗走が各国の離反を招きプロイセン、オーストリア、スウェーデン、イギリスはロシアと同盟し、対仏同盟が結成された。 1813年に対仏同盟軍とナポレオン軍が激突し、対仏連合軍が完全勝利し、ナポレオンはエルバ島に流される。 その後エルバ島を脱出したナポレオン軍は「ワーテルロー」の戦いで再び敗れ、セントヘレ島に流され、ナポレオンはそこで一生を終える。 見えない病原体は侮っても恐れすぎてもダメです。

第17章 ラテンアメリカ諸国の独立と黄熱病 パナマ運河開通の重要課題

アフリカ起源の黄熱病ウイルスは蚊が媒介する感染症です。内蔵機能が低下して黄疸がでることから黄熱病と呼ばれました。欧米列強の植民地政策と奴隷貿易でマラリアやデング熱と同時に黄熱病をもアメリカ大陸に持ち込まれました。 19世紀初頭医は中米はフランスやスペインの植民地として多くの黒人奴隷が重労働を課せられていた。そのため、ハイチでは独立運動がおこり、その鎮圧のためフランスは軍を派遣しましたが、兵士が黄熱病にかかり、半数以上が亡くなり、軍は撤退しました。そして1804年、ハイチは見事独立を果たした。中南米諸国の独立のシンボルとなったハイチは黄熱病によって独立を勝ち取ったのかもしれません。 パナマ運河開通のためにも黄熱病で多くの人命が失われた。アメリカで黄熱病の研究は進み、蚊がマラリアを媒介していることがわかりました。それにより、殺虫剤散布、網戸の設置、排水工事により蚊の駆除を徹底しました。 その後もアメリカのロックフェラー財団が黄熱病研究所を設立したりと研究が進みました。そのメンバーの一人には野口英雄もいました。1910年代に野口はワイル病スピロヘータ―が黄熱病の細菌であると信じ、そのワクチンを作り、本来まった効かないものであったが、終息しかけた中南米の黄熱病地域でワクチンを接種し沈静化したという事実で、自らもそのワクチンを打ち、黄熱病にかかり死亡してしまいました。 そしてついに1937年、マックス。タイラーによりほんとうの黄熱病ワクチンが開発されました。

第18章 英植民地のインドで起こったコレラパンデミックが世界に拡大

1776年アメリカが独立しても依然、インドはイギリス最大の植民地であった。インドは貿易のかなめであり東南アジアや東アジアに進出するためのイギリスの前線基地であった。 そして、コレラはもともとインド・ガンジス川周辺の風土病であり、古代からインドではコレレ様の症状を示す疫病は地域限定で流行していた。 しかし、今回は状況が違った。それがインドに広がり始めたと1817年8月ににインドで疫病発生の報告をイギリス政府は受けた。その間にもコレラ禍は拡大し数週間で一万人もの命を奪った。 そしてその病気はインド各地に広まり、ネパールやアフガニスタン、タイ、ビルマ、日本にも広まった。さらにイラン、イラクの中東にも、さらにエジプロ・カイロとアレキサンドリアだけで24時間に3万3000人が死亡したとの記録もある。 初の正確な記録に残る世界的規模のパンデミックであった。 そしてコレラは1831年にヨーロッパに到達した。 それ以降、世界に広まったコレラは機会を見定めて20世紀初頭まで7度の世界的にパンデミックを起こしている。 19世紀には、欧米の植民地が世界に広がり、蒸気機関や蒸気船の活動が主流になり大量輸送が可能になったことが地球規模のパンデミックを起こした最大の理由であった。

第19章ロンドンでコレラが大流行 起死回生の感染マップと顕微鏡

17世紀にはペスト、18世紀に結核に苦しめられたヨーロッパはが19世にはインド発祥のコレラの脅威にさらされた。 1831年にイギリスに上陸したコレラは瞬く間に広がり死者14万人を超えた。パリでは2万人、フランス全土では10万人など、ヨーロッパ全土で被害者がでた。当時は感染者の半数が死ぬ病気として恐れられた。 当時、コレラの原因は瘴気(病気を引き起こす作用のある空気)と考えられ。空気でうつるとみなされていた。しかし、不衛生な地域のみではなく、貧富に関係なしにコレラは広まっていた。 そこでロンドンの医師であるジョン=スノウはテムズ川の水源地図をつくり、集団感染した地域を捜査するとテムズ川を水源とする利用者に感染が多いことがわかった。そしてコレラの発生源がブロードストリートのポンプ井戸であることを突き詰めた。 つまり、コレラは飲み水により感染するということが人類最初の疫学調査でわかった。 また、16世紀に発明された顕微鏡は改良がすすみ19世後半には医学において利用されるようになった。 19世紀後半になるとルイ=パストウールが炭そ菌発見。1882年ロベルト=コッホは結核菌、コレラ菌を発見した。その後、コレラの大都市でのパンデミックは収まった。

第20章アイルランドの人口を激減させたジャガイモ飢饉と結核の関係


19世紀にはいっても結核はまだ流行を繰り返した。17~19世紀のヨーロッパ。北アメリカの死者のうち20%は結核と言われている。 なぜ、19世紀に入って以前にもまして大流行を繰り返したかというと工業化がすすみ、蒸気機関の燃料として石炭需要がたかまった。そして、労働者は劣悪な環境に置かれた。低賃金、過密労働、ばい煙、不衛生な上下水道、飢饉など結核菌の温床となった。 12世紀からイギリスの支配下におかれたアイルランドは産業革命に取り残され、農業を主要産業にするしかなかった。しかし、その収穫物さえ、イングランドに吸い上げられていた。わずかに残ったジャガイモを育てアイルランド人は飢えをしのいでいた。しかし、そのジャガイモにも1845年から1849年にかけて疫病が発生し、凶作になり、アイルランドでは飢えが広まった。その大飢饉に加えて結核も蔓延し、当時人口の1/8、100万人のアイルランド人が死亡したと言われている。 そして、アイルランドは新天地を求め、アメリカやカナダに移住した。しかし、移住先のアメリカでアイルランド人たちがもちこんだ結核やコレラ、麻疹、チフスなどが流行した。そしてそれがアイルランド移民への差別と排斥運動につながった。 そのような環境にも屈せずアイルランド移民はがんばり、アイルランド移民の子孫である第35代ジョン=F=ケネディ、第40代大統領のドナルド=レーガンや第42代のビル=クリントン、第44代のバラク=オバマと4人の大統領を輩出した。

第21章 幕末から近代化の道を歩んだ日本にも押し寄せた結核

世界のパンデミックから日本に持ち込まれた疫病といえばコレラが有名ですが、江戸時代は鎖国のため、さらにそれぞれの藩境には関所があるため、長崎から流行っても西国まででほとんどの感染症は止まっていた。 しかし、幕末からは不衛生、低栄養な、往来の活発化などで古来からあった結核が復活して蔓延した。長州藩の高杉晋作、木戸孝充、陸奥宗光、沖田総司などが結核であったと知られている。 明治期になると殖産興業と富国強兵の合言葉のもと紡績業と軍隊が注目されたが、この二つに共通することは三密である。 殖産興業の名のもと集められた女工はは50万人、過密で過重な労働環境で働かされ、大半が2年以内に病気になり解雇され地元でなくなった。亡くなった女工のうち7割は結核だったと言われている。そのような悲惨な状況を改善すべく1911年に工場法が制定された。 一方、軍隊でも結核感染者は増加した。第二次世界大戦後に治療法が確定するまでは「国民病」として受け入れるしかなかった。 「国民病」とも呼ばれた結核は芸術・文化の面は滝廉太郎23歳で死亡、森鴎外は19歳で罹患した。正岡子規、樋口一葉などにいかんなく猛威を発揮した。 その頃の公衆衛生はマスクとてあらい・うがいであった。

第22章 謎に満ちた暗黒大陸の開拓 列強のアフリカ進出と植民地医学

大航海以来、西欧列強はアフリカを植民地とした。しかし、それはアフリカの沿岸部だけであった。内陸部に入植するのを拒んだのは現地の感染症であった。 19世紀に入っても西欧が探検で入るのも拒むアフリカ内部は「暗黒大陸」と呼ばれていた。ナイル川の源泉はいまだにみつかっていない。 アフリカ内部にはヨーロッパ人がおびえた黄熱病、チフス、赤痢、そしてマラリアの感染症があった。 19世紀後半には「アフリカ眠り病」が流行した。アフリカ原産のツエツエバエが媒介する寄生虫のトリパノソーマによって引き起こされた。進行すると睡眠周期がみだれ、昏睡になり死亡する。1896年から1906年までの10年間でウガンダ25万人、コンゴで50万人がなくなった。 しかし、19世紀に入るとキニーネによりマラリアは駆逐された。 また、法的には1833年、イギリスで奴隷制度廃止法が成立した。 1884年のベルリン会議でイギリス、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、ドイツ、ベルギーの七か国でアフリカを分割した。 植民地の税収を豊かにするため、植民地の健康対策にも力をいれた。「帝国医療・植民地医学」である。それが医学の進歩を促した。

第22章 謎に満ちた暗黒大陸の開拓 列強のアフリカ進出と植民地医学

大航海以来、西欧列強はアフリカを植民地とした。しかし、それはアフリカの沿岸部だけであった。内陸部に入植するのを拒んだのは現地の感染症であった。 19世紀に入っても西欧が探検で入るのも拒むアフリカ内部は「暗黒大陸」と呼ばれていた。ナイル川の源泉はいまだにみつかっていない。 アフリカ内部にはヨーロッパ人がおびえた黄熱病、チフス、赤痢、そしてマラリアの感染症があった。 19世紀後半には「アフリカ眠り病」が流行した。アフリカ原産のツエツエバエが媒介する寄生虫のトリパノソーマによって引き起こされた。進行すると睡眠周期がみだれ、昏睡になり死亡する。1896年から1906年までの10年間でウガンダ25万人、コンゴで50万人がなくなった。 しかし、19世紀に入るとキニーネによりマラリアは駆逐された。 また、法的には1833年、イギリスで奴隷制度廃止法が成立した。 1884年のベルリン会議でイギリス、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、ドイツ、ベルギーの七か国でアフリカを分割した。 植民地の税収を豊かにするため、植民地の健康対策にも力をいれた。「帝国医療・植民地医学」である。それが医学の進歩を促した。

第23章 イギリス領香港でペストが流行 国際調査団の派遣と進む防疫対策

7世紀に隋を滅ぼし、14世紀、17世紀にはヨーロッパを恐怖に陥れたペストはしばらくの間おとなしかった。 しかし、1894年5月に香港ビクトリアピークで大流行したペストは1か月で450人もの死者を数え、年内は2552人が死亡した。当時、感染者の95%という致死率が香港市民を恐怖の底につき押した。 1842年の割譲当時8000人が住む、漁村だった香港はイギリス領になって1865年には12万5000人が住む世界有数の過密都市となっていた。 香港のペスト大流行には世界から対策チームが派遣された。フランスからはパスツール研究所のイルエサン、日本からは北里柴三郎や青山胤通ら6人の医師団が派遣された。ちなみの明治維新の大政奉還が1867年、日清戦争は1895年、日露戦争は1904年である。 #歴史 #本 #感染症 イエルサンと北里らはペスト菌を発見した。しかし、菌を発見しただけ流行が終息するわけではなかった。香港発のペストは春から夏にかけて毎年のように蔓延した。とくに中国とインドの被害は大きかった。 そしてやっと1897年に緒方まさのりとポール=ルイ=シモンたちがペストはネズミに取り付いたノミが媒介とすることを突き止めた。 香港のペストパンデミック以降、国際的な感染症対策は大きく前進した。 しかし、それは列強が感染症対策として国際調査団を他国に派遣したり、物資を供給したりしてその国への覇権を強化する手段でもあった。 感染症対策が政治のレベルで列強の綱引き状態になることは現在でもよくあることはみなさんが今経験しています。

第24章 第一次世界大戦以上の死者数 人類を脅かしたスペイン風邪

1914年6月にサラエボで、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ=フェルディナント大公とその妻ソフィーが暗殺された、それをきっかけに第一次世界大戦がはじまった。 第一次世界大戦の戦死者が900万~1600万人,、スペイン風邪の死亡者は2000万人から5000万人と言われている。感染者だけなら6億人(当時の世界人口は18億人)つまり、人類の1/3がこの病気の脅威にさらされた。 当時は塹壕戦と言われる土を掘りそこに兵士が隠れ、進撃するという作戦がとられたが、それが感染の蔓延に拍車をかけた(三密状態) 顕微鏡でも見えないウイルスはまだ発見されていなかった。ウイルスが発見されたのはスペイン風邪流行の15年後である。 戦時中という特殊な環境が判断をにぶらせ、スペイン風邪は二波にわたって世界に大流行をおこした。

第25章 世界中に広まったスペイン風邪は終息までに2年以上かかった

1918年3月4日、アメリカ・ファンストン基地でスペイン風邪らしき症状で苦しむ兵士が確認されてから1週間後にはニューヨークに患者があらわれ、8月にはヴァージニア州の各基地でも患者が報告された。その後は自動車工場や学校にもクラスターはひろがった。 アメリカの兵士から運ばれたスペイン風邪はヨーロッパやアジアにもひろがり、パンデミックを起こした。 一時収まりかけていたスペイン風邪だが、ヨーロッパ戦線から戻ってきた兵士によって秋には第二派が襲ってきた。 日本でも台湾巡業の力士がスペイン風邪なくなり力士を中心に春には広まっていた。そして、秋には第二波が訪れたが、感染力は強いが致死性は強くないそれは変異前のスペイン風邪の挨拶だった。しかし、感染者の多さで医療機関はそうくずれた。翌年の秋に致死率の5倍高い恐怖のスペイン風邪に襲われた。

26章 戦時中の死因トップ 国を亡ぼすといわれた結核

古くて新しい病気である結核です。結核菌は人体のいろいろなところに感染する菌で、それなりの感染力があります。 感染すると臓器としては肺結核は有名です。 もっとも古い結核の痕跡はイスラエルの海底遺跡から発見されたおよそ9000年前の母子に結核性の骨の変形が求められます。日本でも弥生式時代後期(5500~5200年前)の人骨に結核性変形が認められます。 18~19世紀初頭にロンドン結核の大流行が起こりました。その背景は産業革命、機械化が導入された行動環境は劣悪でした。 今でいう三密です。 日本でも同じようなことが起こり紡績工場の若い女工や徴兵された新兵で結核が蔓延しました。女工病や軍隊病と言われていました。 1933年には15~34歳の年齢で8万人以上が結核で亡くなっています。1899年から1950年までは第1~3位の間に入っています。 まさに結核は「亡国病」として恐れられました。 結核に光が差したのは1944年にアメリカで開発された抗生物質「ストレプトマイシン」です。1949年には日本の国内生産が決定し、値段もさがり、結核患者は急減した。 しかし、現在でも毎年2万人が新規感染し、2000人が亡くなっている感染症です。さらに治療薬に耐性をもつ「多剤耐性結核菌」の出現が人類の脅威になりつつあります。

27章 世界一丸とんなった予防接種で天然痘撲滅に成功!

天然痘は疱瘡とか痘瘡とも呼ばれる天然痘ウイルスによるものである。 基本的には人から人への感染以外はこのウイルス生存できない。 病気として定着したのは農耕がはじまった一万年ころまえである。 致死率は50%、紀元前1157年になくなったエジプトのラムセス5世のミイラに天然痘のあとがみられる。 #歴史 #本 #感染症 18世紀のイギリスの開業医エドワード=ジェンナーは農村の女性から「私は牛痘にかかったから、天然痘にかかりません」という話をきいた。 イギリスの農業地帯では古くから牛の皮膚に痘疱のできる病気があった。この牛痘は人間にも感染するが、2~3週間で完治する。 1958年にWHO総会で世界天然痘根絶計画が可決された。当時は天然痘は30か国以上で流行し、毎年2000万人が感染、およそ400万人が死亡する感染症であった。 計画では当初すべての人々に予防接種を行う「皆種痘」を押しすすめたが、、流行はとめられず、「天然痘患者を早期発見し、その周辺人物を隔離し、その人たちに集中的に種痘を行う」サーベイランスと封じ込め作戦に切り替えた。 1977年、ソマリア南部で発症した男性が自然発症した最後の天然痘患者となりました。 1980年、WHOは地上から天然痘が根絶したことを宣言した。

第28章 突如として人類に牙を剥いたSARSとMERS

2002年中国の広東省で農業従事者の若い男性が仏山市第一人民病院に入院した。 その人は全快して退院したが、同じような肺炎で入院する患者が次々現れた。ほとんどが回復するが何かに死亡するものもいた。 その患者たちを治療していた医師が香港のホテルで体調を崩し亡くなった。その部屋を掃除し、感染は別の宿泊カナダにもベトナムにも、感染は一気に広まった。 WHO職員で感染症専門家であるイタリア人医師カルロ=ウルバニは現地にはいり調査した結果、{これまでにない未知の感染症}と結論付けた。 WHOに警戒態勢をひくよう指導した。残念ながら彼はこの病に倒れなくなった。この肺炎はSARS(重症急性呼吸器症候群)と命名された。原因は新型のコロナウイルス2003年には急速に感染は突然、終息を迎えた。 感染の震源地の広東省は野生動物の肉を食べる習慣があり、もともとはキクガシラコウモリではないかと言われている。 2012年にはサウジアラビアでSARSににた症状で男性が急性肺炎と多臓器不全でなくなった。 これも新たなコロナウイルスであった。 これはMERS(中東呼吸器症候群)と呼ばれた。2018年にはアメリカ、イラン、フィリピン、ヨーロッパの国の合計27か国に広まった。 この呼吸器症状が急激に悪くなる理由は解明されていない。

第29章 差別問題と向き合うエボラ出血熱とエイズ

2014年西アフリカでエボラ出血熱の大流行が確認された。 症状は発熱、激しい頭痛、下痢、嘔吐、腹痛、出血(吐血・下血)である。 致死率は20%~90% 回復しても失明、失聴、脳障害などさまざまな後遺症が残る。 この時のエボラ出血熱はアフリカの封鎖に失敗して、イギリス、イタリヤ、アメリカへと拡大した。 2014~2016までの死者は約1万1300人と推計される。 治療薬とワクチンが開発されつつあるため、なんとか感染流行は抑制されている。 エボラは死者を埋葬する現地の風習(死者を素手で清める習慣)を否定し、当時、医療団は猛反発を受けた。 1981年にニューモシスチス肺炎という珍しい感染症にかかった同性愛者5人の報告があった。さらにカポジ肉腫という珍しい悪性腫瘍例も報告された。 患者の免疫系になんらかの問題が起こっているため、後天性免疫不全症候群(エイズ)という新しい疾患として定義した。 やがてその病気は輸血を受けた乳幼児や女性にも現れはじめた。 1983年フランスのウイルス学者リュック=モンタニエが病原体の分離に成功して、そのウイルスはヒト免疫不全ウイルス(HIV)と名付けられた。 当時はエイズはゲイの病気といわれ、ゲイコミュニティに偏見や差別がひろがった。 見えない病原体に対する措置は医学的な問題だけなく地域の伝統、習慣、経済、無理解、差別などの人の心に同時に潜む問題の解決なしには終息しない。

第30章 あなたが原因になるかもしれないハイチのコレラ流行から学ぶこと

コレラは激しい下痢や嘔吐などを引き起こす感染症で、コレラ菌に汚染された水から感染します。 前にものべたようにもともとはペンガル地方の風土病でしたが、過去に何回か世界的流行を起こしています。 コレラ菌や感染経路が明らかになった1800年代後半からは散発的な流行はありますが、大流行はほとんどありませんでした。 ところが2010年1月12日カリブ海のハイチでマグニチュード7.1という大地震が発生した大統領府をはじめ、ほとんどの建物が倒壊しました。 各国から救援隊が送られ、被災者の救出などで活躍しました。 しかし、地震から9か月たったころコレラが流行し始めます。 地震で建物が倒壊し、生活インフラが悪化したためと思われましたが、じつはそれまで150年間ハイチではコレラは確認されていませんでした。 調査の結果、ネパールの国連平和維持活動(PKO)部隊が知らずにコレラを持ち込んでいました。 この時のコレラでハイチでは70万人が感染し、9000人以上が亡くなったと言われています、 交通網の発達した現在ではみえない病原体対応するため、基本的な衛生意識が再び問われているようです。

第31章 世界の形を変えるかもしれない 新型コロナウイルス

12月に中国武漢で0号患者がでて、日本では2月に3711人の乗客がのったダイヤモンドプリンセス号で新型ころなウイルス感染(=COVID-19)が確認された。 その頃はまだまだ日本人は他人事でしたが、それが3月には国内にい広まり第一波が起こった。 もともと4種類の風邪のコロナウイルスと2002年に新しくSARSコロナウイルス、2012年にはサウジアラビアでMERSコロナウイルスが見つかった、今度はSARS-COV-2(新型コロナウイルス)と7種類になった。 この新型コロナはやはり他のコロナウイルスと同様に呼吸器に親和性を持つようで、高齢者に肺炎をおこして、重症化させる。 当時、世界的では5%の致死率、ヨーロッパでは10%超えの致死率であり、入院患者も急激にふえ、医療崩壊を起こした地域もでた。 しかし、初発からほぼ一年たち、新型コロナの遺伝子同定、ワクチン開発、治療薬開発などがすすでいる。 また防疫の対策の再確認で 手洗い・うがい・休息 症状があれば出歩かない 三密(密着・密接・密閉)をさける つまり換気も大切であることが認識された。 もちろん、ペットや靴などで家庭にウイルスを持ち込まないことも見えない病原体たいする防疫であり、この本の感染症の歴史から学びとれる感染症対策である。  我々は一つの新しいウイルスと共存することになったが、パニックになることなく正しく恐れることが大切である。 今現在の数字では世界で感染者は増えているが、致死率は2.4% ヨーロッパでも軒並み5%を割っている。日本では1.6%となった。 ちなみに第一波で終息できた中国は5.3%と当初の世界致死率のままである。 まだウイルスが弱毒化したとの報告はないが、ウイルスの変異報告は多数ある。 さらにCOVID-19に対する治療のコツがわかってきたことは救命率に大きく関与している。 日本の治療では主にアビガン、アクテムラ、デキサメサゾン、フサンなどの治療薬が奏功しているようだ。レムデシビルは経験的にはあまりパッとしないようである。理学療法として伏臥位変換でSPO₂が改善するなど種々の工夫が行われた結果、救命率が向上した。 また、イベルメクチンは手に入りやすく、副作用も少ないため、治療時の濃厚接触が心配だと思ったら予防的服用をする最前線勤務医療者の話もまた聞きではあるが聞いたことがある。 今後もいろいろな武器が手に入ると思う。

この冬は正しく恐れてみんなで頑張って乗りきっていこう!!

私の解説で興味を持ったらこの本は買いです。

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イラスト図解 感染症と世界史 「人類はパンデミックとどう戦ってきたか」 河合塾世界史講師 河野正史 宝島社  

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【データーを読み解きましょう!】

新型コロナウイルス感染 世界マップ:日本経済新聞

日本国内の感染者数(NHKまとめ)

新型コロナウイルス国内感染の状況:東洋経済

日本COVID-19対策ECMOnet COVID-19 重症患者状況の集計

AIによるグーグルのCOVID-19 感染予測(日本版)

新型コロナウイルス対策ダッシュボード

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